男たち、野獣の輝き

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Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

『ノストラダムスの大予言』★★★

東京湾炎上』でガッチリと丹波哲郎に心を奪われてしまったので、丹波哲郎東宝特撮パニック三部作をさかのぼって観てみようと画策。というわけで今回は二作目の『ノストラダムスの大予言

こちらの作品、ご存じの方も多いと思いますが、いわゆる「封印作品」として有名な作品。つまり現在では正規の方法では視聴不可能。海外のビデオはありますが、あちらはカット版。

ところが僕の家のDVD収納フォルダには、手書きで『ノストラダムスの大予言』と書かれたCD-R(!)があるんですよ。もちろんノーカット版。

確か1999年、まさにノストラダムスの大予言で世界が滅亡するという年に、ネットから落としていた海賊版ですね。当時は「まあ、いつか観る機会があるだろう」という軽い気分で保存しておいたのですが、まさか13年も経って観ることになるとは。

封印されている原因は二つあるようです。

丹波哲郎たちが調査しに来たニューギニアで、下降してきたオゾン層による放射能の影響により原住民が食人族と化してしまうエピソード。これがまあ確かに子供の頃に見たらトラウマ必至のインパクトですが、映画全体がトラウマ製造機のような異様な作品なのでバランスとしてはまったくおかしくない。

もう一つが、終盤で核戦争後の地球で生き残った新人類(?)が被曝による奇形児を模しているんではないかというイチャモン。これも前述の理由で作品内ではなんら問題はなし。

そもそも、『ノストラダムスの大予言』という本を原作にしている段階で、かなり異常な企画ではあります。しかし、当時の大フィーバーぶりはその後何十年も(1999年まで)延々と子どもたちの間では話題だったわけですから、東宝特撮作品として作られることに違和感はなかったんじゃないでしょうか。まあ、当時のことは知るはずもないのであくまでも憶測ですが。

第一作である『日本沈没』は小松左京によるキチンとした原作小説があり、しかも橋本忍が脚本を書いているわけですが、こちらの原作小説は基本的に「詩篇」なわけで、特にストーリーはないんですよね。

そこで丹波哲郎の登場ですよ。

この作品の後に『日本沈没』を立て続けに観たので分かるのですが、丹波哲郎が画面に出てきて何か喋っていればそれだけで軽々と映画になってしまうんですよ。それだけのパワーの持ち主ですから、多分同年に製作された『人○革○』何かも相当アレなのに違いない。

かくして、幕末の時代から(なぜか)「ノストラダムスの大予言」の書を世襲してきた主人公丹波哲郎が、科学者として当時の日本……いや世界中の死と隣り合わせの恐ろしい現状を、様々な黙示録的エピソードを交えて描いていくという、ある意味コレ以上ないほどの完成度を誇る映画になっています。

これだけ不安感を煽りまくる映画もそうそうないんではないかと思えるほど、脈絡もまるでなく世界規模の危機が次々と展開していく。中盤以降は現実と虚構がクロスオーバーし過ぎて、もともとストーリー性が希薄な上にいっそう観客の足元をぐらつかせてくる。海賊版なだけに劣悪な画像がこれをさらに促進させるから始末に悪い。しかも、不意打ちのように岸田今日子による世にも恐ろしい詩篇の朗読が入ってくるに至っては、背筋がぞっとするほどだ。

ところが、丹波哲郎の存在がガッチリと観客の拠り所となってくれる。これはこれでかなり危険なことなのですが、とにかく丹波哲郎に頼るしか無くなってしまう。まさに新興宗教の教祖のように。

あるシーンでは、アドバイザーとして招かれた丹波哲郎に海千山千であろう政治家たちが挑みかかるのですが、笑ってしまうぐらい軽々と一蹴。講演会のシーンに至っては相手は素人ですから、丹波哲郎によって完全にノされてしまう。もっとも恐ろしいのは、丹波哲郎が一体全体何をどうしたいのかほとんど分からないという異常さ。つまり、「何か凄いことが起きようとしている」「とにかく何か行動に移さなければいけない」という切迫した焦燥感だけが、根幹の指標もないままにぐつぐつと煮えたぎってしまう。ルドビコ治療法なんてちゃんちゃら笑ってしまうぐらいの豪腕ぶりだ。

具体的に分析すると、丹波哲郎は「世界で現在起こっている不安な出来事」をあの声と迫力と的確な言い回しで述べ上げているだけ。それが実に巧みなスキル(イコール丹波哲郎の芝居が最高に素晴らしいということ)で展開されることで、『予兆』として観客の脳に刷り込まれていく。

そう考えると、舛田利雄監督による支離滅裂なシーン構成なども、実はかなり計算された作劇ではないかと思えてくる。上に貼りつけた冨田勲による音楽もそれを見事に煽っている。つまり、当時空前のブームになっていた『ノストラダムスの大予言』という現象そのものを換骨奪胎して「映画」によって封じ込める事を目的とした、実にまっとうな作品だと思える。事実観終わったあとは、とっくに世紀末は過ぎ去っているのに、かなり不安定な気持ちになってしまいましたし、70年代末期の「残り香」ともいうべきあの頃味わった感覚がまざまざと蘇って来ました。


「封印」されているという現在の状況も含めて、ある種の「演出」として機能しているように感じられる、実に興味深い作品です。

・・・

丹波哲郎が妻を看取るシーンがあるのですが、ここは本編の中でも突然挿入される映画的なシーンであり、丹波哲郎の芝居がただの勢いだけのものではないことを証明する名シーンでした。丹波哲郎は本当に上手い!!