男たち、野獣の輝き

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Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

『スーパー8』★★★1/2

エイブラムスが仕込んだ本当の仕掛け

主人公のジョーが監督じゃなくてメイクアップ係(&雑用)だと分かった瞬間。「これは!」と唸った。やっぱりエイブラムスも「こっち側」の人間なのだ。

そして、監督のチャールズね。タラ似の面構えに肥満体型という外見のみならず、「熱意」だけはいっちょまえで、事あるごとに「クオリティ重視だ」と決めるこのキャラ。子どもの頃に映画を撮った人間なら誰しも感情移入せずにはいられない愛すべき奴。

表向きは「スピルバーグへのオマージュ」「SFチックなスタンド・バイ・ミー」「あの夏」などなどの記号で充満させている造りで、主人公のジョーもそれを体現しており、エイブラムスらしく「器用」にうまく作られている。エル・ファニング演じるヒロインとの絡ませ方なども胸がキュンキュンするようで非常に上手い。

だが、この映画を愛すべき作品にしている要因はやっぱりあいつらが(具体的にはチャールズだが)作っている「THE CASE」(事件)というゾンビ映画だろう。1979年という時代設定は完全にエイブラムスの青春時代に重なるわけだが、『ゾンビ』や『ハロウィン』が公開した次の年であり、『エイリアン』が公開される年である。実際メイク係の主人公ジョーの部屋には『ハロウィン』のポスターが貼ってあるし、監督チャールズの部屋には『ゾンビ』のポスターが貼ってある。ジョーはメイクの技術を褒められて「ディック・スミスの本で覚えた」とニコニコ答える。ディック・スミスは言わずと知れた特殊メイクの神様だが、自分の技術をすべてオープンにして本に書いたことでも映画史の中で重要な位置にある。

つまり、田舎の子どもたちが映画を自主制作するというモチーフにやたらとリアリティがあるのである。SFXは金もかかるし手が出ないが、特殊メイクアップなら指南書もあるし手作りで何とかできてしまうのだ。ホラー映画が商業的にも低予算映画として大量生産される理由の一つがこれなわけだし。

そして、リアリティはそれだけではない。チャールズは唐突に脚本を変更してまでヒロインを登場させ、女優を抜擢してくる。

この理由が中盤で明らかになるのだが、このリアリティと切なさが凄い。あれこそが実はこの映画の真のクライマックスと言える。

オタク監督→子供の頃はモテない→大人になったら主演女優と意地になってくっつくという史実に則ったリアリティである。このルサンチマンこそモノづくりの原点と言える。


そして、エンドクレジット。

本編と密接にリンクした映像と、チャールズがご大層に宣っていたシナリオが結実した作品『THE CASE』が上映される。自主映画を山ほど観たことのある人間なら分かるのだが、この自主映画「大変出来がいい」。撮影技法などはまったく稚拙なつくりになっているが、コンパクトにまとまっていたり、ちゃんとストーリーがあったり、クライマックスがちゃんとあったり、意外な展開とお約束の連続があったり、おまけに最後は監督自身が登場して偉そうなことを言うやいなやまたしてもお約束なオチなどなど、これをちゃんと成立させて完成させる事ができる人間は実はそんなに多くはない。ここでも「夢」のあるリアリティが充満しているのだ。とにかくあの数分の短編がそれまでの2時間とリンクして生み出す泣き笑いのパワーは本当に凄い。あれを観るためだけに本編があったといっても過言ではなく、あれサービスやおまけやお遊びでは断じて無い。『アイアンマン』でデリカシーのかけらもなく「クレジットでも席を立たないで」的な余計な事をスーパーで出した挙句に「実にどうでもいい」サービスシーンがあるのとは全く別次元なのだ。

そして、ここでまたデリカシーのない余計な注意を喚起しなかったことは英断と言っていい、何故ならエンドクレジットで席を立つような映画愛の無い人間にはあれを楽しむ資格も価値もないのだ。

当たり前のようにエンドクレジットを観ている「映画ファン」だけが、『スーパー8』を本当に楽しむことができる。これこそエイブラムスのあっぱれな「仕掛け」だろう。