男たち、野獣の輝き

旧映画ブログです。

Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

『海の底』を読みました

海の底 (角川文庫)
海の底 (角川文庫)
posted with amazlet at 11.08.31
有川 浩
角川グループパブリッシング
売り上げランキング: 2031

災害小説とジュブナイル(及びロマンス)の融合

「オリジナルは存在しない」と言われて久しく、既にある要素をいかにして巧妙に紡ぐかがオリジナリティになっている昨今。

遡れば、1970年初頭、『大空港』によって幕を開けたパニック映画ブーム。この大空港が内包していた要素は、「舞台を一箇所に限定」「通常とは異なる非常事態」「それに翻弄される人々のドラマ」「それに立ち向かう人たちのドラマ」。この作品が画期的だったのは、これらをテンポよく絡ませて、その場に自分が居合わせたように感じさせる疑似体験=シミュレーションを観客に提供したことだ。

「だったら」と当然ハリウッドの映画人は腕をふるう。

それぞれの要素を別のものに置換して、その場に自分が居合わせたかのようなシミュレーションドラマを色々と生み出すことになる。

舞台が空港=飛行機だったから、今度は豪華客船が転覆すればいいじゃん→『ポセイドン・アドベンチャー

シミュレーションだったら天災もいいんじゃない?→『大地震

船の転覆はイケたけど、天災は範囲が広すぎて収集がつかないからやっぱり人災がいいよ→『タワーリング・インフェルノ

と、ここまで順調に進んできたディザスター物のジャンル。決定打になってしまった『タワーリング・インフェルノ』の後、どうするんだとハリウッドの人たちは考えます。

「なんか、いい『非常事態』残ってねえかなあ……」「あ、人食いザメ」

って事で、海水浴場に人食いザメが現れて人々が翻弄される映画が作られる。

しかし、ここでちょっとしたことが起こってしまう。任されていた監督が降りてしまい、完成が危ない。「何か若いのでブイブイやる気満々の奴がいる」「じゃあ、そいつなら失敗しても責任を押し付けられるな」

が、

彼は「オタク」だった。生粋の「オタク」だった。メジャー映画会社の人たちが既に見向きもしなくなり、ジャンルそのものも衰退して過去のものになっていた「モンスター映画」に精通していた。

彼は、誰も想像すらできなかった「トラックがモンスターと化す」極めつけのアイデアを生み出したリチャード・マシスンの脚本を得て、一本の映画を作り出していた。

マシスンの卓越したアイデアを「流用」して、彼は「人食いザメ」を「モンスター」に仕立て上げた。


つまり、『ジョーズ』の前半部分で「ディザスター映画」は終焉を迎え、後半部分で「モダンモンスター映画」が勃興したのだ。


というわけで、『動物パニック物』と日本で呼称されるこの特殊なジャンルは、こういう系統の上に成り立っています。


前置き終了。


今作『海の底』では、横須賀がある生物に襲撃されるところから始まります。そして、それを『災害』としてシミュレーションしていくのが大きなプロットです。元を辿ればモンスター映画の代表である『ゴジラからしてシミュレーション要素は大きい。『ゴジラ』が戦争のシミュレーションだったのに対して、今作では『災害』のシミュレーションという点がポイント。日本でこういった災害が起きた時に、矢面に立たされる警察警備部の奮闘が大変魅力的かつリアリティ満点に描かれていています。

こういった出来るだけ嘘くさい「非常事態」をリアリティ満点にシミュレーションするというアプローチは、極論すると「マニア」と言われるファンが大なり小なり常に望んでいる(求めている)アプローチでもあります。シミュレーションの方向性に関しては「臨場感」であったり、「緻密な世界観」であったり、要するに「ディティール」です。そして、その題材になる「非常事態」が嘘臭ければ嘘臭いほど、その「ディティール」の正確さや描写の迫力にリアリティ(説得力)が強く要求され、その振り幅が広ければ広いほど成功した時の評価もそれに比例する。

日本でこのアプローチの革新となったのは言うまでもなく『機動警察パトレイバー』シリーズ。

「会社としての警察」という新鮮味のあるアングルは、テレビドラマの『踊る大捜査線』にも流用されました。一方「嘘くさい」題材のシミュレーションにも『パトレイバー』は果敢に挑戦しており、コミック版では『廃棄物13号』シリーズという傑作「モンスター物」を生み出している。

『海の底』はその流れに一番近く、実際にそのアプローチは大変流暢かつ魅力的に描かれている。何よりもシミュレーション物が陥りやすい「キャラクターが画一的で人間味がない」=「シミュレーション・ゲームの駒」になってしまうという欠点を巧みに回避している。ただ、それよって序盤は個人的に感情移入がし辛かった。

しかし、その序盤である種「青臭い」キャラクターが登場するのは、それこそ「青臭い」プロットがもう一つ用意されていたからなのだ。ここが重要であり、この作品が革新的なところ。

「非常事態」によって隔絶された潜水艦内部(危機的な状況にありながら、実質的にはほとんど危険はない)に閉じ込められた十数人の子どもたちと、二人の自衛官が生み出すドラマが陸上部分のシミュレーションと交錯して描かれる。

実際このふたつのドラマが干渉することは殆ど無く、いうなれば一つの「非常事態」を使ってふたつの小説を読んでいるようなものだ。しかし、このふたつのある種「水と油」のようなドラマがひとつの作品の中で共存している事が革新的だった。

例えばスティーブン・キングの傑作『霧』(及び映画化された傑作『ミスト』)では、「非常事態」によって隔絶された状況が丹念に(悪意を持って)シミュレーションされる。『霧』では外の様子が殆ど描かれない代わりに、この隔絶された状況だけでドラマをキチンと成立させている。外部の「非常事態」はその状況設定を生み出しているだけだ。そして、その他の「籠城」物の作品でも、ほぼ例外なく「内ゲバ」に代表されるようなコミュニティーの崩壊が描かれる。対して、『海の底』では、隔離された潜水艦内で展開されるのは「少年少女たちの成長」。このジュブナイル要素を持ってきたのはかなり失敗のリスクが大きいと思うのだが、読み終えると大変好感の持てる内容で、序盤で苦しめられた「青臭さ」が見事に機能していることに驚く。思えば『生物災害』物というジャンルに対する思い込みや欲求に対して、そういう「青臭さ」は拒否反応を生みやすい。個人的には間違いなくそうだった。ただし、読み進めるにつれて、そちらのジュブナイル部分がこの作品のメインプロットであることに気付く。

作者自身、あとがきで書いているように、本来『十五少年漂流記』を目指して筆が進められたそうだ。

読み終わってみると、この作品はメインの潜水艦内の『ジュブナイル』物を引き立たせるために用立てられただけの「生物災害」という状況を、実に魅力的に描くことで作品として成立させている。

冒頭で「既にある要素をいかにして巧妙に紡ぐかがオリジナリティになっている」と書いたが、どちらか一方に特化して描いたほうが評価も高いだろうし、作品としてのまとまりもよくなるかもしれない。ただし、そこを踏まえて「混ざりにくい顔料をいかにして混ぜて新たな色を作るか」が現代の作劇法の一つの要諦と考えるなら、それに挑戦していることは高く評価されるべきだし、それを見事に成し遂げているなら賞賛すべきだ。


ボクはもう夢中になって読み進めたし、「人間の負の部分」に頼ったドラマにも辟易していただけに、(安直な表現だけど)「悪人がひとりも登場しない」この作品には喝采をあげずにはいられませんでした。そう、原点である『大空港』の持つ唯一無二の底抜けに明るいカタルシスに近いものを感じました。


傑作です。