男たち、野獣の輝き

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Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

『アンストッパブル』★★★


黒澤明の精神

思えば映画には『暴走する』物がやたらとある。僕が一番最初に観た作品はテレフィーチャーの『暴走パニック超特急』だ。これは暴走の原因が犯罪なのですが、要するに、「止められない列車を何とかして止める」というシンプルなプロットです。

「一行で説明できるプロット」は傑作の条件。このプロットを開発したのは、数多くのこういう「一行プロット」の先行者である我らが黒澤明監督(と脚本家チーム)なんですね。

1966年に書かれたシナリオ『暴走機関車』がそれ。一行どころか、タイトルだけでプロット全部が分かるという凄まじさ。しかも、黒澤明と脚本家チームの凄いところは、そういう「一行プロット」の力を絶対的に信じていて、他の余計な枝葉を全く盛り込まないんですね。

「刑務所を脱走したらしい二人組が機関車に密航するが、運転手が心臓麻痺で運転席から落ちてしまい暴走開始。さあどうなるのか?」

という、基本それだけ。つまり、映画というものが「さあどうなるのか?」にすべてがあるということを完璧に知り尽くしているんですね。しかも、1960年代からの黒澤明は『用心棒』から始まる「エンターテインメント路線」にノリノリだった時代ですから、まあ、この脚本も凄まじい娯楽性なんですよ。皮肉にも1985年にコンチャロフスキー監督に映画化された際には、「余計」な枝葉が多くついてしまって、せっかくの「娯楽性」が台無しになっている。

今回トニー・スコットの『アンストッパブル』を観て、何が気に入ったかというとこの「シンプル性」なんですね。もっとも黒澤明監督の書いたオリジナルシナリオの精神に忠実な作品なのではないでしょうか(なんか実際の事故に基づいて云々という前置きがありますが、黒澤明の『暴走機関車』をちゃんと映画化したら面白いんじゃないの? という企画であることは明白)。

黒澤明のシナリオでは刑務所を脱走した二人組というフックがあるのですが、こちらのシナリオではもっとシンプルに老機関士と新人機関士のコンビが暴走機関車に挑みます。この変更によって、ドラマ部分での面白みは減ってしまいますが、変わりに周りの人間が全員ふたりを応援するという『スポーツ映画』のような図式を生み出しています。それによって、90分弱という短い上映時間で大変スムーズに燃える仕組みが出来上がっています(単純といえば単純ですが)。

前半部分は正面衝突のサスペンスと、周りの人間があの手この手で何とかしようとする様子を描き、後半ではふたりにすべてが託されるという構成も大変シンプルで力強い。ベタとはいえ、新人機関士には「誤解で険悪になっている妻」、老機関士には「妻の死で疎遠になっている娘たち」という、それぞれがテレビ中継を通じて絆を取り戻すという仕掛けもある。これによって、観客はテレビ中継を一緒に見ている雰囲気になるんですね。

まあ、これは登場人物に寄り添うという形での感情移入を多少妨げる結果にはなっていますが、先に書いたように『スポーツ映画』としてのノリとしては正解。

一番この映画で驚いたのはトニー・スコットの演出。最近は『ホット・ファズ』でもパロディにされるぐらい、ガシャガシャと五月蝿い過剰な演出を作品に施すのがスタイルになっていましたが、この作品ではそれがかなり抑えられており、「ストーリー」を盛り上げるために貢献している。もちろん過剰なほど運転席の周りをグルグルグルカメラが回ったり、イチイチ人物にクイック・ズームで寄ったりするのは健在ですが、それが特にストーリーの起伏と乖離していないのは評価できるでしょう。
何より、「連結部分に落っこちそうになるクリス・パインなめで、上昇するヘリのローターを望遠で捉える」という、正気を疑うようなテンションの高いカットが観られただけでも嬉しい。マイケル・ベイもたまに狂ったようなカットを撮ったりするけど、あのカットはちょっと声が出た。

いまどき潔いぐらい純粋なパニック映画なんですが、1970年代のパニック映画を浴びるほど観ていた人間には、「最新の技術でぜひ」というあくなき欲望を満たしてくれたことは素直に嬉しい限りです。



まあ、機会があったら是非読んで欲しい『暴走機関車』のシナリオはこちらに収録されています。むちゃくちゃ面白いから。