男たち、野獣の輝き

旧映画ブログです。

Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

生きる [DVD]

生きる [DVD]

生きる [DVD]

結構久しぶりに観直しました。

今観ると、前半部分で次々と主人公が周りから突き放されていく構成が、「自分自身で生まれ変わらなければダメ」という風に見えて、実に黒澤的だなと強く感じました。最近のドラマとかだと、主人公が病になったりすると周りの人間も一緒になって闘病ってな感じになると思いますし、主人公が先ず周りの人間に「俺は病気なんだから…」と病気自慢大会に陥るのが常套な感じなんですが、この映画はタイトルからして明確に本当に「生きる」と言う事はどういうことかを、病気で余命幾ばくもないと言う設定を使って描いているわけですから、先に述べたような部分は全然テーマが違っちゃうんですね。

勿論「病気で余命がないと知った主人公」という設定自体が当時としては画期的な訳ですが、観直せば観直すほどその設定が重要な要素ではないと思えるので、黒澤明が常に「当時としては画期的」な設定を生み出しているだけではなく、逆にそれに依存していないからこそ現在まで脈々とその輝きを放っているのだなと強く感じるのです。

例えば『七人の侍』の「農民に雇われた侍が七人集まって無償で村を敵から守る」という画期的なプロットにしても、それだけがあの映画の面白さでないことは明白で、例えば一人一人の侍のスカウトの仕方や目の付け所が面白かったり、菊千代が実は侍じゃなかったりですし、大体映画の後半2時間近くはずっと「敵と戦う」だけなんですからね。その戦いの戦略や攻防や誰が死ぬかといった緊迫感が映画の肝になっていると思うのです。だからあのプロットを使った映画が何本作られても、一応面白くはなってもあれほど面白くはならないんですね。

ただ、矛盾しているようですが、その画期的なプロットも肝であることは言うまでもありません。ボクが言いたいのは「それだけじゃない」ということです。

話を『生きる』に戻すと、やはりシナリオの構造上画期的な中盤の転換が凄いなあと改めて感心しました。ナレーションが先行してパって変わるあの感覚は本当に凄いと思います。よっぽどの度胸と自信がないと出来ないんじゃないかなあ。あそこのナレーション処理のためだけに前半にナレーションが付加されているのも素晴らしくて、しかもそれがちゃんと単体でも演出として機能しているあたりも素晴らしいです。黒澤のシナリオって使い捨てするキャラとか展開が殆どないんですよね。大抵途中で再度活きてくる。あれは感心します。