男たち、野獣の輝き

旧映画ブログです。

Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

『コラテラル』を久しぶりに観ました


コラテラル スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン (2010-09-16)
売り上げランキング: 14477

スター・チャンネルでハイビジョン放送していたのを視聴。久々の鑑賞だったけど、初期のHDカメラ撮影で捉えられた夜のロスはハイビジョンでこそ映える。ただ、現在の高品質なルックスではなく意図的なほどフィルムとは違うビデオらしい肌触り。

最初に観た時も思ったけど、観直してみても「変」な映画だ。

フランク・ダラボンチャック・ラッセルの二人がプロデューサーとしてクレジットされていることからも、シナリオの作りはあくまでも低予算映画向けのソレだし、実際エリック・レッド的な部分も感じられる。ただ、そこにマイケル・マンが絡んだことによって、彼の妙に真面目で硬質な持ち味がこの映画を「変」な味わいにしているように感じる。

キャストにしても、マイケル・マンが監督になったことで成立した「トム・クルーズ初の悪役」が良くも悪くもこの映画をいびつなものにしている。

本来ジェイミー・フォックス演じるマックスが巻き込まれる(コラテラルの意味)一夜の不条理な冒険であり、それによって強制的に「男」として成長していく王道のストーリーだ。なので、殺し屋のヴィンセントはマックスの前に=観客の前にポンと現れるべきだし、マックスが知る情報は観客と共有すべきだと思う。つまり、トム・クルーズが主演になることによって、ヴィンセントのキャラクターに多くのカットやシーンを割いてしまっているのだ。それが「なんで、そんなことするの?」というシナリオ=ヴィンセントの意味不明な穴だらけの行動に観客が不満を感じてしまう結果になっている。元来殺し屋なんてシュールなキャラクターなのだし、わざわざタクシーを拾って殺しをして回るという行動の動機も常軌を逸している。現にヴィンセントのペダンチックで哲学的な会話は彼自身にとってはまるで意味をなしておらず(意味を成す必要がない)、マックス自身の心に波紋を生み出すためだけに存在しているのだから、なおさらヴィンセントの単独行動を描いている幾つかのシーンはこの作品の質を落としている。

マイケル・マンがどうしてこういった雇われ監督のような仕事をやることになったのか詳細な経緯を知りたいが、一方マイケル・マンが監督をしていなければ「知る人ぞ知る佳作」どまりの映画にしかなっていなかった(そのほうが映画としては成功だったのかもしれないけど)この映画に「妙な魅力」を付加させているのも紛れもなくマン自身だ。

タクシーをねぶるようにフェティッシュに描く冒頭部分や、色気ムンムンに漂う独特の夜景ショットや街の風景描写、そしてお約束のノンモンで走る車のショットや静かに流れていく車内の無言カットなどなどはまさしくマイケル・マンの持ち味が遺憾なく発揮されていて魅力的だし、とうぜん唸るほどカッコイイ銃さばきを見せつけるトム・クルーズの描写にいたっては他の監督には絶対にできない芸当だ。

また、クライマックスのサスペンス・シークエンスも、プロットとしては陳腐としかいいようがないよくあるものなのだが、マックスがビルに潜入する時に恐る恐るゴミ箱をガラスに投げつけるが割れなくて「ええ?」っとなる描写や、続いて銃を使おうとしてもセーフティーがかかっていて巧くいかず、それを解除するのにもモタモタする絶品のディティール描写が素晴らしい。ヴィンセントが転じて椅子を思いっきり投げつけてガラスを叩き割る対比や、飛び出した彼がその椅子につまずくリアルな描写も印象的だ。


お世辞にも「いい映画」とは言えないけれど、中学生の頃に観てしまうと恐らく10本の指にまかり間違って入ってしまう危険な潜在能力を持った映画とも言える。


男ならやっぱり、床の銃を拾ったそのままの姿勢で身体を起こし、恐ろしい速度のダブルタップを決めたいもんだ。