男たち、野獣の輝き

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Beauty Devaisethのファイナル・ファンタジー14新生エオルゼア奮闘記

2Dでも100%面白い『ゼロ・グラビティ』2D字幕版〜水滴と水しぶき〜

全国4億人のグラビティリアンのみなさんこんばんは。

本日は2D字幕版でゼログラってきました。

「3Dで観ないとこの映画の20%しか楽しめない」と嘯くキュアロン監督(スクリーン表記では「クアロン」)ですが、いやいや100%楽しめましたよ。3Dが300%すごいだけです。

一番わかりやすく3D効果が楽しめるISSデブリ襲来シークエンスですが、これがもう普通にハラハラ・ドキドキしますからね。2Dでも十分驚異的な描写です。もっとも、3Dで観た時のように目を思わず閉じてしまったり、身体がビクっとはなりませんがw

ただ、まあ、「ゼロ・グラビティをIMAX3Dで観たことがある」ってのは将来必ず映画好きの間で大きなアドバンテージになるのは明白で、悪いことは言いませんから意地でもIMAX3Dに観に行くことを強くおすすめしますよ。

・・・

さて、今回は前回の日記でも言及した「水滴」について、ちょびっとだけ気にして観ていました。

その前に僕の映画に対するスタンスを少しだけ。僕はあんまり映画にしろ漫画にしろ何にしろ、「メタファー」とか「裏の意味」とかそういったものを読み解くことに興味がありません。よく言われる「メタファー」なんかは、ディティールと一緒で「作品」にとっての一描写にしか過ぎないと思っています。この作品で言えば「胎児」とか「再生」とか「へその緒」とか、そういったあたりですが、メタファーにしては露骨に描かれているのでわかりやすい。ただ、この作品においてそういった要素は「味付け」の一つにしか過ぎなくて、松屋の牛丼とは一味違うぞと観客に思わせるために機能しているに過ぎません。それを「特別な味付けをしているから素晴らしい、その調味料は別の牛丼では使われていなくて本場フランスで使われている数少ない……」風な、「そんなの食べてる人間には関係ない」わけですよ。よく本末転倒な評論とかでみますけどね。調味料について話しても仕方なくて、その調味料がどのように味付けに使われて、その効果が料理にどのように作用しているかを考えるべきなんですよ。

閑話休題

で、「水滴」なんですが。

もちろん「水滴」そのものは、単純に「生命」そのものをメタファーしているんでしょうが、それはどうでもいい。

最初に登場するのはもちろん「地球」です。シナリオにも「スフィア」と地球を表現しています。画面にはほとんどのカットでこの地球が背景に移りこんでいます。この球体がまず視覚的に観客の脳にきっちりと印象づけられますが、衛星軌道上のお話なので地球の全体像が映ることはない。この視界に収まりきらない事で地球=球体の大きさを表現しています。

つづいて問題の、ISSに辿り着いたライアンが浮いているチューブ状の水筒を取った時に溢れ出る水。これが無重力なので水滴になって通路に漂い、最後はカメラのレンズに一粒付着します。結局ライアンは水を飲みもしないので、この水筒の役割は無重力空間の描写の一つとして登場させていることと、当然「レンズに付着」させるためだと考えられます。友人の指摘にもあったのですが、この映画では「客観的視点」と「主観的視点」をカメラが絶妙に行ったり来たりしています。基本的には主人公に寄り添う主観的視点を軸にしていますが、この場合の主観的視点とは何も「一人称」の主観撮影のことではなく、観客が主人公のそばにいて一緒に体験を共有させるための視点です。没入感を促す非常に有効な演出法ではありますが、舞台の転換などをしにくいために映画としては難しい作劇でもあります。

そして、この映画では極力「カメラ」の存在を意識させないように配慮しています。出来る限り「観客が宇宙に居る」と錯覚させることに注力していると言い換えてもいいでしょう。

「宇宙に居る」ことと「主人公のそばに居る」ことはこの映画ではほぼ同義として扱っており、それを成立させることで、主人公に感情移入し、すなわち「映画に没入」させることに成功しています。これが究極の「ヘトヘト感」につながっているわけです。

では、どうして「水滴が一粒レンズに付着する」というレンズ=カメラを意識させる描写を挿入したのか?

僕はこれを「安心感のアクセント」と捉えました。

今まで散々宇宙空間を漂って、遂に辿り着いたISSという「安全圏」。ここで水滴よりも実はもっとすごい「火の玉」が漂う描写が直前にあるのも重要で、あの火の玉を観た観客は当然「とんでもないことが起こる」というフラグを脳に立てられます。しかし、それに主人公は気づかずに漂っている。そこに漂ってくる水滴が当然「レンズを避ける」と思わせておいて、付着するインパクトですよ。もちろんこれは諸刃の剣で、当然「せっかくのカメラの透明化が台無しになってしまった」と思う観客も居るでしょう。「現実に引き戻された」と感じる人も居るでしょう。いずれにせよ観客はあの描写で一瞬「安心感」を得ているように思えるのです。

この「現実に引き戻される」感覚は当然ラストの水滴にもつながるのですが、中盤で一度それを入れておくことでラストの水滴に関して保険をかけているとも思えます。レンズ=フィクション感の損失と捉えるか、レンズ=リアリティと捉えるかが肝になりますが、個人的にはよりリアリティを深める効果があったように思えました。おかげで直後に起こる火事の大惨事がより効果的にハラハラできたように思えます。安全圏だと思えていた場所が全然そうじゃなくなる感覚が。

まあ、要するに「よく見る映像」を観ることで観客は安心感を得るんですよ。冒頭の宇宙作業の描写もテレビでいくらか観たことがあるように、宇宙ステーションを漂う水滴なんて「宇宙」の描写の最たるものじゃないですか。

そこでフィクションラインを調整しているのだと思います。

付け加えるなら、火事のシーンで消火しようとしたら逆に消火器の噴射によって反作用が起こりライアンが内壁にたたきつけられるシーン(ここも二重三重に伏線が入り乱れている名シーンですが)、あそこで一瞬気絶したライアンの鼻血が赤い水滴になって漂うのも秀逸な描写だと思います。あれぞディティール描写によってすべてを語る映画言語の美学ですよ。

次に、何度観ても泣いてしまう、ライアンの流れない涙。あの涙がポッドの中を漂う描写。ここでもキュアロンは「フォーカスを合わせる」事でレンズを観客に印象付けます。長回しの中であれを入れ込むのはもちろん技術的な意味でも理由はあるように思えるのですが、単純に無重力に漂う涙の水滴にフォーカスを合わせて、その中に反転したライアンが写り込んでいる描写は直接的に「生命」=「魂」とかを感じさせてくれますよね。そういうアクセントもクルーニー復活という超自然的な描写への移行をスムーズにしているのではないでしょうか。僕には効果的に感じられました。

そして、最後の「レンズに付着する水しぶき」

ほんとあの瞬間のカタルシスはなんでしょうか。

最後の最後に大地を踏みしめたライアンの足が起こす水しぶき(泥も含め)がレンズに盛大に付着し、あまつさえそのまま最大仰角のアオリ構図で主人公を見上げ、そのまま歩いて行くのを後ろから捉えていく。あの「重力の存在感」

ここでも「水」=「生命」とかは置いておいて。

あの水しぶきと構図が、あの映画の生み出す「ヘトヘト感」のトドメを観客にさしていると思うのです。

無重力空間を散々振り回されて、大気圏突入のハラハラを疑似体験させられた挙句、水没の危機まで体感させたあとで、主人公と一緒に地面に這いずるように上がってくるカメラに水しぶきが当たって、一気に現実感=地球=重力を文字通り冷水を浴びせるようなショック描写で観客に思い出させるんですよ。しかも、観客は立ち上がることを許されず、地べたに這いつくばったまま見送るしかないという。そこにドーンと「GRAVITY=重力」!!(タイトルとして出てるんじゃないですよコレ)でダメ押し!!


この映画が究極の体感アトラクションサバイバルムービーとして作られていることに疑問を持つ人は居ないと思いますが、先に書いたように「メタファー」にとらわれて本質を見失うようなことがないように気をつけてほしいと思います。メタファーは「味付け」

ラストの水しぶきはぶっちゃけて言うと、ディズニーランドのスプラッシュマウンテンやユニバーサルスタジオのジュラシックパークライドのラストと同様、トドメの急落下と同時に乗客に降りかかる盛大な水しぶきを直接描写してるわけですよ。演出意図としてはもちろん他にも色々とあるのかもしれませんが、僕にはそうとしか思えませんでしたし、実際に見終わった直後の「ヘトヘト感」は遊園地のライドと近いものと同等のものでした。

遂に映画の演出は(3Dというギミックがあるにせよ)、ここまで観客への体感を可能にしたのかという驚きが、あの水しぶきには感じられました。

最後にコレかよ!!

というね。

だって、普通NGショットですからねw あんな水しぶき。


無重力空間の描写を徹底的にして、カメラの存在を極力希薄にした意味は、最後の最後の「重力描写」によって観客をヘトヘトにサせるためだったというのは、タイトルも含めてキュアロンの底意地の凄みを見せつけられるように思えます。

改めて「キュアロンよくぞやった!」と言いたいですね。